純真さと苦悩を感じた

2012.02.08

「すべての文章は誰かの心のなかで補完されるものでしょう?誰かが心のなかで膨らませて完成させてくれるわけです。だから僕が書いているつもりでも実は読む人も参加していることになります。僕がいいたのはきっとほんとに小さなヒントだけです。誉めてくださるのは嬉しいけれど……」「自分は下手だって言いたいわけか?あんたは神様と疾走したいだけか?いいか?そんなこと言っていたら、真夜中に手をあげてもタクシーはとまってくれなくなる。タクシーがとまってくれない人生がどれだけ寂しいかわかるか?想像してみろよ」「わからないです」「タクシーがとまってくれないのが続くとそりゃ恐ろしいことが起こるんだ。今度はな、タクシーに手をあげる気力やエネルギーそのものもなくなる。タクシーに手をあげられなくなる。なあ、そうだろ?心が萎えてしまう。そしてやがて人生も萎えてしまう」「そうですね」この一風変わった客。無数に開けられたピアスはこの世界で答えのでない理不尽なことがあった時に開けている、と笑った。その穴の数の多さで僕はこの人の純真さと苦悩を感じたのだ。だから閉店時間になっても、そのことを告げずに酒を出し続けた。「もちろん両親から貰った名前はある。いつもそれを右のポケットに入れて、左側には○○って名前を入れている。あんたの名前は?」「○○です」「○○?」「この店ではそう呼ばれています。名前なんてなんでもいいんです。もちろんフルネームもあります。フルネームは○○○○っていうんです」「○○○○?なんだよ、それは。確かそれは死体の名前じゃなかったか?」「そうです。アメリカでは身元不明の男の死体を○○○○と呼びます。身元不明の女の死体はジェーンードウなんです。それが僕のとりあえずの名前です。ある意味では僕はもう死んでいるんです。○○と呼んでください」「なんだよ、それは。ある意味では僕は死んでいるんです、か。変わった奴だな。しかし本名はちゃんと右のポケットに入れておくんだぞ。名前って本当にバカにできないんだ。名前のないヤツにはタクシーもとまってくれない。まるで宇宙の彼方に住んでいるような気分になる。そこは寂しい世界だぞ」